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ENTRY #16
モダニズムの感覚論(1)
Date: 07.02.07 AM10:33

 モダニズムとは意識の状態である。あるいは、モダニズムとは、知覚をめぐる営為のことである。
 これまで、モダニズム芸術に対するさまざまな定義付けがなされてきたが、こうした観点は、たぶん、あまり強調されてこなかったと思う。モダニズムは、むしろ芸術の客観化・物象化・外化としてずっと語られてきた。しかし、今こそモダニズムは、意識の状態のことだと語られ、記述されなければならない。モダニズム芸術は、客観化の芸術のことなのか? ちがう。モダニズムとは知覚の様態のことなのだ。カンディンスキー、クレー、モンドリアン、あるいはコルビジュエ、グロピウスといった初期モダニストは、皆、(少なくとも当初においては)意識の状態と知覚の様態を定着させ変容させることを狙いとして制作を行ってきたのではないだろうか。あるいは、ロスコやジャッド、といった人たちが狙っていたのも、または現在制作を行っている幾多の芸術家たち、絵画というジャンルだけでなく、写真、映像、インスタレーション、メディアアート(たとえば、ビル・ヴィオラのような作家たち)といったあらゆる方法によって表現を行っているアーティストたちの作品も、意識と知覚という着眼点から読み解かれていかねばならないのではないだろうか。
 現代芸術、あるいはもっと広くいって現代文化一般、といってもいいのだが、それは、情報レベルとして読み取られ受容され評価されている場合が多いのではないだろうか。現代のアート作品も、それをめぐる評論・テキストといった言説も、すべて、私たちの前を通り過ぎる、たんなる一過性の情報として受け取られ処理されていくことが多い。その情報の「内容」こそが問題とされ、その主張の内容--社会的/政治的な問題、アイデンティティの問題、ジェンダー、ナショナリズム、etc.etc.……--がいちど理解され受け取られれば、すぐさま省みられず消費されていく。そう、意識/知覚にこだわる態度の対義語は、消費なのだ、といってもいい。
 消費は、別な観点からいえば、内容に関してだけではなく、その外形、スタイルについてもなされ得る。スタイル、外観の様式の変化こそが、モダニズム芸術の要点である、ともこれまで語られてこなかっただろうか。確かに、様式の変化は、人間がものをどうみているかという知覚の変化の指標となりうる。しかし、スタイルの変化の外観だけが、まさに情報として消費されてしまうことによって、私たちはほんとうの、深度の深い経験としての芸術経験をする機会を絶えず逸してしまうことになるのだ。芸術対象に没入し、それがいったい何なのか、どんな感覚を私たちにもたらすのか、そこで私たちの知覚に何が起こるのか、そのことによって私たちの意識にどんな変容が行われるのか、ということを、じゅうぶんに感じ、考え、理解しようとすること、そうした芸術経験こそが、今後、よりいっそう探し求められなければならないのである。
 いまいったような芸術経験、モダニズム芸術の核としての、(作品をみる私たちの側の)意識の状態の記述としての作品として、たとえばマーク・ロスコの絵画群をその典型例として思い浮かべてもいいだろう。鑑賞者の前に存在する、茫洋とした色面をずっと見つめ、その対象に没入することによって、見る者の知覚の様態と意識の変容のありかたを確認させることを、おだやかに促すような作品群……。
 ところで、ロスコの作品について考察する際に、その感じ方、考え方の筋道のヒントになりそうな一冊の本が、最近邦訳されている。ニコラス・ハンフリーという心理学者/哲学者が書いた『赤を見る:感覚の進化と意識の存在理由』という書物である(柴田裕之訳、紀伊國屋書店、2006年11月刊)。著者のハンフリーはマウンテンゴリラの「盲視(ブラインド・サイト)」の研究など、動物行動学方面の研究も蓄積しつつ、人間の感覚や知覚とは何か、またそれを通じて、人間の意識とは、そもそもいったい何なのか? という問題を問い続けている学者である。『赤を見る』は、文字通り、一面真っ赤なスクリーンを見るという行為のなかで人間の感覚や知覚が行っていることを熟考し、意識の正体を探り出そうとしている、一連の講義録から生まれた書物だ。本の前半部分はひじょうに興味深くスリリングだが(第3章まで)、後半の論理展開や結論にはやや疑問点を多く感ずる箇所がある。機会があればそうした議論も試みてみたいところだが、いまは、モダニズム芸術や特にロスコ芸術の受容に関係ありそうな箇所についてほんの少し紹介をしてみたい。

aka3.JPG  ハンフリーによれば、赤いスクリーンを見ているときにその人間に起こっているのは、「二つの非常に異なる種類の出来事」である。まず一つは、「物事がどういう状態であるか」「何が起きているかについての概念」を得ていることで、これを「命題的態度」という。もう一つは、見ている人自身の視覚的感覚に関する意識であり、これを「現象的意識」という。ここでは彼は「実情の観察者」であるだけではなく「それまでまったく存在しなかったものの能動的作り手」であり、「その感覚こそが彼であり、ほかならぬ彼の主体性の本質を形作っている」(あるいは、「この感覚、この『赤すること(レッディング)』は、この瞬間に彼本人であることの核を成す」)。この彼の感覚は「能動的で第一人称的な反応」であり「何かについてのものではない」。それは「赤い感覚を経験していると自らが呼ぶような特別な意識の状態」なのである。  
 ここでハンフリーが行った重要なことの一つは、彼自らの言い分によれば、次の通りである。すなわち、いままで「見る」とは何かということを論じる際には、たいてい「命題的」要素のみに焦点が当てられてきたが、実は、「現象的」要素に焦点を当てることによって明らかにできることがたくさんあるのだ、ということだ。もちろん、「現象的」側面に光を当てることは、それこそ文字通り「現象学」という哲学の分野でフッサール、フレーゲ、メルロ=ポンティらが行ってきたことの専売特許であるわけだが、ただ、ここではハンフリーが哲学と心理学・生理学を結びつけ、こうした意識をめぐる議論になるべく科学的な根拠を与えようとしていることこそが、今日的・現在的な新しさを持っている、といえるというわけなのだろう。結論からいえば、ハンフリーがここで主張しているのは、「命題的」要素=知覚、「現象的」要素=感覚、と捉えてみた場合、「知覚」は生物学的な生存・個体保存に大きく役立っているのに対して、「感覚」はまさに自己意識を統一し統御するのに役立っており(それは、いま・ここに・私という主体が在る、という感じをもたらす)、「感覚を持つことで主体は意識を持つようになる」ということなのである。ではなぜ人間は生物としての進化途上で、機能的には知覚の「おまけ」としてあるように思える感覚を(すなわち自己意識を)発達させてきたのか、という問いが『赤を見る』という書物の後半で展開されているわけだが、さきに述べたように、ここの議論の展開のさせ方には個人的にはちょっと納得のいかないものがある。最終的な結論として、生物としての人間が自己意識を獲得したのは、けっきょく、自己が重要なものであり世界において大きな意味を持つという認識を得させるためであり、そのことがまた人間を生物種としても飛躍的発展を遂げさせたのだというあたりは、おおかたは強く納得するが、ちょっと合点のいかない部分もある。(※ハンフリーの以前の著書を、生物進化学者のリチャード・ドーキンスや養老孟司氏が誉めているというのも頷ける話であって、彼らは科学界の最右翼の還元主義者であるからだ。当のハンフリーも本書を読み進めているうちに、どうも還元主義者であるらしいことが分かってくるのが、ちょっと引っかかる点なのである。まあこれはどうでもいい話であるのだが……。ちなみに、筆者にとって「還元主義者」とは、何でも「○○は××に過ぎない」という結論に持っていきたがる思考様式を持つ人々のことである。養老氏いわく、「すべては脳の働きに過ぎない」。)
 だが前にも述べたように、この『赤を見る』という書物の、前半部分の論の展開はひじょうにスリリングで、様々に応用可能な胚を含んでいるようで、面白い。たとえば知覚と感覚の差異づけの問題は、さきにもちょっと言葉を出した「盲視」の問題とからんでいる。盲視とは、大脳皮質の視覚野に損傷を受けているために、基本的に視覚機能が働いていない(つまりものがみえていない)はずの人が、それでも実は目の前のものの形や色がわかっている、みえている、つまり知覚しているらしい、という現象である。こういう人々は、きちんとものが見えているはずなのに、自分では「ものが見えているという感覚がない」という。つまり、知覚があるのに、感覚がない、のだ。このような問題提起をされたときに、知覚と感覚との差異ということがちょっとだけ具体的に思考の対象にのぼってくる。というのは、私たちは日常生活のなかでは、「目の前の赤い色をみている」ということと「赤い視覚体験が私のなかで起こっている」ということを、通常、区別しない(できない)。哲学的に考えるなら、むしろ確実なのは私の主観的経験のなかで赤い色を感覚している、ということのほうなのであって、目の前のスクリーンがほんとうに赤いのかどうなのか客観的に確かめてみるためには、もう一歩ちがうステップが必要になってくる。ハンフリーにいわせれば「感覚は物理的事実として網膜上に存在する像のたんなるコピーでは断じてない」。単なる知覚として目の前に赤いスクリーンがあるという情報を得るということと、鮮やかに、あるいは深く、没入するように「赤」を経験する、ということのあいだには、超えがたい何か、プラスαが存在する……。しかしこの知覚と感覚(あるいは知覚と意識/知覚と概念?)という問題圏は、人間の思考をめぐるヴィトゲンシュタイン的領域にまで拡張していく恐れがあるから、ここではこの程度を示唆するにとどめておこう。
 話を戻せば、いまハンフリーの著書の流れに則って展開した議論は、たとえばロスコの絵画をみるときの私たちの意識のありようそのものと深い関係を持っていないだろうか。
 私たちはたぶん、モダニズム芸術をみる際にも、それが何をどう描いたものであるかという「命題的」要素のほかに、そこで作品をみる者に何が起こるのか、という「現象的」側面を強調して論じる必要があるのかもしれない。鑑賞者がひたすら自分の作品のみに没入してくれることを望み、他人の作品が鑑賞者の視野に入ってくることを嫌い、自分の作品のみの展示を志向し、ついには自分の作品のみに鑑賞者が囲まれる連作の「壁画」形式、礼拝堂形式に傾いていったロスコの作品。鑑賞者はそこで、自らの感覚のなかにおぼろげな形態と色彩が浮き上がってくるのを感じ、自らの意識と対面し向き合うことになる。そのためにこそ、この絵画の外観は周到に配慮されている。モダニズムと感覚の問題、それは私たちを今日あらためて芸術の根本的な問題に私たちを連れ出すのである。(続く)

川村記念美術館
http://www.dic.co.jp/museum/

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