| Posted by 倉林靖 | Date: 07.03.13 AM10:00 |
私たちの意識は、いったいどのようにして存在しているのだろうか。たとえばロスコの絵を観る体験は、意識とは何かを問う体験と同じであり、その絵画作品は私たちのなかに意識が浮かび上がってくる様相を捕らえるために制作されたのではないか、と思えてならないのだ。
彼の作品--ここでは川村記念美術館(http://www.dic.co.jp/museum/)の「ロスコ・ルーム」の作品群を念頭に置いて考える--が私たちの内部にまず及ぼす感覚は、それが「浮かび上がってくる」という感じである。ロスコ・ルームの室内はとりわけ照明が落とされて暗くなっているので、私たちはそこに入ると、はじめはひじょうに暗くて殆ど何も見分けられない。暫くたって眼が慣れてくると、ようやく絵画がどのように描かれているかを識別できるようになる。ロスコはアトリエで作品を制作しているときに、それが置かれる暗い雰囲気を考慮して色彩その他を選択しなければならなかったそうだが、それほど彼はこの、暗さから作品が浮かび上がってくる、という感じを大事にしたかったにちがいない。
この事態を逆にいえば、私たちの眼がいかに環境の明暗の差に柔軟に対応しているか、を示すことになるのだが、ここですでに明らかになるのは、作品の「客観的」な記述など、ほんとうはありえない、ということなのだ。作品の状態は周囲の明るさによって大きく変わってくるし、置かれた場所・位置、背景の壁の色、等々によっても見え方はかなり変化する。その、どの状況をとって、作品の理想的な見え方、とするのか? 自然光を最大限に浴びた状態を、客観的に記述できる状況、とするのか? しかしそれでは、暗所に置かれることを意図された作品では、意図と「客観性」のあいだに大きな懸隔がつくられてしまうことになる。絵具の物理的な組成や含有量、輝度など、絵画を「科学的に」「測定」して、最大限に客観的に正確に記述することはできるかもしれない。しかし、それは、私たちが、ある時、ある状況下において、ある心理状態・精神状態のもとで作品を「観る」ことの意味を明らかにしてはくれないのである。作品の受容とは、私たちの意識のなかで一回一回独自なものとして、一度きりのものとして起こる「事件」である。客観物=感覚、ではない。両者はイコールでは結べない。『赤を見る』のハンフリーの言い方に従えば、ロスコの制作した絵画という客観物と、それが私たちの内部に喚起した感覚とは、決して等号では結べないものなのだ。
だからこそ、作品について客観的に述べようとするときには、科学的に正確な記述と同時に、作品を観ることによって私たちの感覚に起こった出来事をできるだけ詳細に記述してみることが必要なのだろう。そして、ロスコ作品のような抽象絵画は、むしろ感覚内の出来事をより重視させる方向に傾いている、といってもいいだろう。伝統的な「主題」を持った絵画は、そこに描かれている具体的な「もの」が何か、を記述することによって、客観的な記述をしおおせるという感覚を生み出しやすい。レンブラントの作品などを考えてみると、その作品はロスコ的な意味合いで、光、色彩、筆触など、純粋に感覚受容的な要素を多く含んでいるのだが、しかしそこに描かれたもの、人物、背景、主題を知ることで、作品を知った気にさせるものである。モダニズム絵画が、主題や内容をどんどん捨象させて抽象的になっていった、ということの意味は、だから、ひとつには観る者を自らの感覚により集中させる、というところにあったわけなのだ。しかしこれはモダニズムに特有のことでは決してなく、絵画、芸術に本質的な問題である。美術の客観的な記述などということは、殆どありえない、ということ、そして、絵画を観るとは、私たちの意識内で一回一回その都度起こる事件であるという、このことは。
ロスコ・ルームにおいて、作品が「浮かび上がってくる」という印象をさらに細かくみていてくと、そこにはまず「図」と「地」の問題があることがわかる。絵画の基底となる面の上に、また別の色面が「載っている」という感覚。川村のロスコ・ルームの作品では、その載っている色面のさらに上にもう一つ色が載っているのだが、基底の色と一番上の色が似通っているため、それらは「色面が三層にわたって載っている」のではなくて、「基底に枠のような色面が載っていて、その枠の中に基底の色が見えている」とも見えてくる。私は観に行くたびに、前者のようではなく、後者のように見えてしようがないのだが、他の人にはどうなのだろうか? これはロスコが意図的に面と面の関係を曖昧に見せようとした結果なのかもしれないが、私にはなんとも断じ難い。ともかく、ある基底(地)の上に茫洋とした色面(図)が載っている、という状態が、よけいに、イメージが「浮かび上がってくる」という印象をもたらしているのだろう。非物質的な空間に、また別の、ある非物質的な曖昧な形象が浮かんでいる、という感覚である。この、上に載った色面が茫洋としている、ということ、これは、「地」と「図」の問題のほかにもうひとつ、「輪郭」という問題圏を浮上させる。
私たちはものを見るときに、「輪郭」を感じているということ、そしてそれは表現手段として「線」を伴うこと、これはとりあえず知性を持った人間に普遍的な見え方であるらしい。印象派(あるいは日本の明治時代の「朦朧体」など)は、輪郭は私たちの視覚のリアリズムに反するのではないか、として、輪郭を強調せずできるだけ周囲の環境(光)に溶け込んだ形でものを描こうとした。ところがこれは、少なくとも理論的には些か無理があるのではないだろうか。たとえばこれに関してケネス・クラークが印象派について述べたことはひじょうに興味深い。
「芸術創造の最高の目的は、人を説得せずにはおかないイメージをつくり出すことにある。イメージはひとつの具体的な<物>であり、印象派は<物>の放棄をねらいとした。また絵画におけるもっとも単純で永続的なイメージは線で囲まれた<物>であるが、印象派は線を放棄した。」(ケネス・クラーク『風景画論』佐々木英也訳、2007、ちくま学芸文庫、251p.)
だから、印象派はむしろ私たちの通常の視覚のリアリズムとは別次元の認識形態を、(結果的に)創造していったのだ、ということは、ここではあまり深入りしないようにしよう。とにかく、通常の私たちのリアリズムとしては、ものに輪郭があるのが当たり前で、そのほうが「自然」な感じ方なのである。では、輪郭がぼやけているロスコの絵は、やはりそのことによって、通常の視覚的リアリズムとは異なった(越えた)領域を描こうとしている、ということになるだろうか? ロスコの絵画は、普通の生活圏内での知覚を描いたというよりも、やはり非物質的な何かを描いた、という感じが強い(これは抽象絵画なのだから当たり前、といえるだろうか? もしそうなら、ロスコの絵画の持つ非物質性と、たとえばモンドリアンの絵画が持つ「具体的な」印象の差はどう捕らえられるのか。--このことは、「もの」としての絵画、物質性としての絵画ということを強調したような作品群を考えることとはまた別な問題である。捏ねまわされた絵具という「物質」を呈示した白髪一雄の作品とちがって、ロスコやモンドリアンの作品はやはり枠内の「イメージ」を問題にした作品なのであり、そのうえでの、イメージの具体性と非物質性についてここでは考えているわけなのだ)。ロスコの絵画は、色面の「地」の上に茫洋とした「図」が載っていること、そしてそれらが曖昧な輪郭をもっていること、によって、そしてまた絵画全体の枠の中にその「図」の形態がすっぽり納まっていること、によって、「非物質的」な「イメージ」であることを私たちに喚起させるのである。
たとえてみれば、ロスコの絵画は、眼を閉じてみたときに浮かび上がる残像の斑点のようなものに似ている。この残像とは、半分、「知覚なしの感覚」に近づいたもので、--「半分」というのは、眼を閉じたときの残像でさえ、瞼の皮膚を通ってくる光に影響を受けているだろうし、直接的には眼を閉じる直前に見たものの反映に多くを負っているのだから。このような「知覚なしの感覚」に近づいたものとして、私たちが睡眠中に見る夢、あるいは覚醒中に脳裏に浮かぶ「イメージ」があるかもしれない--私たちはロスコの絵画をみることで、自分の内部、内的なイメージに向き合い直面している、ということになるだろうか。もっといえば、ロスコの絵画に向き合う経験とは、具体的な「なにか」を見る経験なのではなく、「イメージをみること」そのものに向き合い、感じ、考える経験なのだといえるだろう。いわば、禅の経験のようなものだ。絵画を観るということが、イメージを見るということそのものについて考えさせる経験を常に含んでいるとすれば、ロスコの絵画を観ることは、そのような経験についての経験を喚起させる、ほとんど禅の瞑想のようなものであるといえるのかもしれない。
ロスコの絵画を観る経験について、いままで、「浮かび上がってくること」「非物質的なイメージ」「イメージそのものを見ることの経験」「禅の経験」などとさまざまに形容してきたが、もうひとつ重ねて言うことを許してもらうとすれば、それは「意識が無意識から浮かび上がってくるような経験」ということもできるのではないだろうか。ある茫洋とした、曖昧な広がりのなかから、ひとつの形象に注意が集中されて浮かび上がってくる。おぼろげながら自己意識がそこに形成されていく。ロスコの絵画をみるときに、暗く曖昧な画面から眼が慣れ自己集中が進むにつれ、ひとつのイメージがだんだんと認識されていくことに応じて、観る者のなかで曖昧な無意識から次第に意識が浮かび上がってくるのだ。いわば、ロスコの絵をみる経験のなかで、意識の誕生の劇が行われているのである。
無意識からの意識の浮上、自己意識の誕生と形成、ということに関して、私にとってたへん示唆的なふたつの著作がある。ひとつは、ジュリアン・ジェインズが書いた『神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳、紀伊國屋書店、2005)、もうひとつはエーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』(林道義訳、紀伊國屋書店、改訂新装版2006)である。ジュリアン・ジェインズ(1920~1997)はプリンストン大学の心理学の教授であった人、エーリッヒ・ノイマン(1905~1960)はドイツからイスラエルに渡った、ユングの高弟でユング派の分析心理学者。二人のアプローチはおおむね一致していて、個体としての人間の心理の成長と、人類史における意識の発生を重ね合わせ、人間にとって「意識」の発生は、たかだか今日から四、五千年、ないしは三千年前くらい前に起こった新しい出来事であること、そして人間にとって、意識の基底となっている無意識が非常に重要な役割を果たしていること、を詳述している点で共通している。意識が生み出されることによって初めて「自己」意識が芽生える。--私たちは日常生活のなかで、思ったほどは「意識的に」生きてはいない。日々の習慣的な行動パターンにのって無意識的に行動している、とか、何も意識せずにぼんやりと考えをめぐらしている、ようなことがはるかに多いのである。私たちが「はっきり自己意識を持って」生活している場面、とは、ではどんな場面かというと、私たちが自らの行動や考えをはっきり意識しているとき、あるいは、「何かを考えている自分について考えている」ようなときである。前述のジェインズは、意識を持つ前の人間は大部分、無意識から聞こえてくる声に従って行動していた、つまりそれが「神の声」と認識されていた、という立場をとっている。自己意識の統制、自己統御が失われた状態(いわゆる統合失調症)では、分裂した別人格からの声が聞こえてくることが多い、ということを、心理学者のジェインズは重ねて強調している。人間は自己意識を持つことによって初めて、いま・ここに一個の存在としての自分が在る、という感覚を持つことができる。自己意識は、無意識から自己創出されるのであり、いわば、フィヒテが語った「自我は自分自身を定立する」というような思想がここに内包されているのである。このことは、ハンフリーが『赤を見る』で語った、自己意識の存在の意味にもつながっているように思われる。ロスコの絵画を観ることは、こうした意識と無意識についての想念を様々に喚起させてくれることによって、わたしたちに大変重要な経験をもたらしてくれるのだと私には思えるのである。このあたりの意識-無意識の問題はとても面白い問題を孕んでいるので、次にあらためて論じてみたい。(続く)


