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ENTRY #127
ライオン
Date: 07.11.06 PM07:26

 私のタブロー形式の作品、1シリーズは通常白ですが、他に“赤”が9点、“緑”を1点制作しています。
 この背景について考える時、そこに打たれる点と同色の背景では、その点が見えなくなるということにまず着目できることでしょう。また、見えなくなる同色以外の点も、普通に発色することはありません。たとえば赤の背景では、黒と緑の点を識別することは困難です。一方、白の背景の場合5色全ての点をその色として見ることができるわけで、そこに描かれた植物の形体もありのままに現れます。このありのままに現れるということを何かの目的に対する進みとして捉えれば、“色付き”の方が“白”より劣った状態にあると言えるはずです。しかし、その背景以外両者に違いが見られないということを合わせるなら、それらはある1つの状態の中での程度差の表われにすぎないと考えられるのではないでしょうか。つまり色を変えただけのバリエーションの問題としてではなく、その差異によってその1つの状態の中に流動性の存在することを気分させるのです。といっても“色付き”が作られたのは“白”よりずい分後になってからのことであり、“白”のみであった時にもすでに同様の流動性が存在していたと言えます。でなければ“色付き”を待たない限り、この作品は未成立ということになってしまいかねません。“白”が同様の流動性を有するということは、構想の当初からこの作品を人間存在に対応させて考えていたことにはじまります。そこに種と個、成長、進化といった問題が引き合わされたのです。
 まず、種と個が相反するベクトルに存在するということを取り上げてみます。個は種を維持させるためだけではなく、種を超え出てゆくための可能性としての側面をも有しているはずです。種が個を抑え込むのは、種の暴走状態、生存の危機的状況を招くリスクを軽減させる必要性からに他なりません。つまり個はいろいろな方向に進化の可能性を探る役割を持ち、その探られた可能性が繁栄を目的として有効と判断された時に種の壁がはじめて押し開かれるように、というわけです。
 この戦いの状態は、描かれた植物の形体の半分がいつも正常で、他の半分が色点レベルとして所定の位置と異なる位置にあるという状態から読み取ることができるのではないでしょうか。形体が確固としてあるということはすでに一つの権力ですし、たとえばトマトの位置にオレンジの点があるということは、まだその形体を変えるには至っていないとしても変化への探りがあるということに他なりません。さしずめ“色付き”はその1つの状態に参入したて、まだ以前からの後ろ盾を残した存在となることでしょう。
 ここにその1つの状態を横断するその前後をも含めた流動性、ベクトルが見えてきたはずです。また“色付き”は、それらが存在するということ自体で、その1つの状態の中を広いものとする可能性、赤の後ろ楯をもつものもあれば、緑もあるというように、特権的ではないその1つの状態への参入の自由度をも示すことを適えさせたと言えます。
 そして種と個ということについてのもう一つは、全体と部分に関しての問題となるはずです。たとえば展示された作品はいつまでいっても部分でしかないわけですが、それらの比較によって他の作品、しいては実際に作られた総数よりさらに大きな全体をも垣間見せてくれるに違いありません。道に落ちている1個の石ころ、プラスティックの破片でさへ、その痕跡をたどっていけば、宇宙のはじまりにまで達すると考えることができるのではないでしょうか。このように全体は部分を含むということと逆のベクトル、部分は全体を含むということが同時に成立しうるはずなのです。なぜ、生物の細胞は働きえるのか。それは自分の位置を知り、自分の仕事を知っているからに他ならないことでしょう。これには統率者によって振り分けられ、教えられるというような場合も想定可能ですが、そう考えるよりは自分で判断しているとすることの方に妥当性が認められると思います。とすれば種というものは存在せず、それは個の内に刻まれた何かと考えてさしつかえなくなるはずです。ここに立てば、社会革命的なことであっても、いかにも対外的な、種を外部に存在するとして考えることに他ならなくなるように思われてきます。この対外的とは、その1つの状態以前の状態に相当するのではないでしょうか。その1つの状態を色点の状態からフリークとするなら、その1つの状態以前の状態もフリークであり、にもかかわらず健全と思い違いしている状態、その1つの状態以後の状態を本当に健全な状態と考えることができ、思い違いをしていることを知らない、ゆえにそこに喜びを見い出しているのか、それを知って、あるいは気付いていながらもそこに留まることを欲っしているのかのどちらかとなるはずです。またその1つの状態のことを、自分がフリークとしてあることを自覚し、その克服に出発した状態という意味での健全な状態とも言えることでしょう。
 この種が個を含み、個が種を含むという含み合いは、描かれた植物の形体が全て同一であること、それでいて一つ一つが異なる色点の位置を持って、つまり別々のものとして自立してあること、それが多数存在するということから可能とされたのです。
 そして、次のように考えることも可能でしょう。進化の可能性を探る個と真の意味での芸術家はオーバーラップして捉えることができるのではないか。ここに真の意味でとしたのは、この1つの状態以前の状態にある人間でありながらも、自らを芸術家と名乗ったり、そう呼ばれている人々も存在するからに他なりません。つまりその1つの状態にある人間のことを、私は芸術家と見なしているということになります。進化の問題を考えることと芸術について考えることは近しく、人間存在というより、芸術家としての存在を念頭に置いていたと言った方が正しかったのかも知れません。その1つの状態こそが私にとっての興味であり、人間のあるべき姿のように思われているのです。
 ここにその1つの状態以前にある人間とその1つの状態にある人間の違いは、対外的な戦いから個人の中での戦いの移行に存在すると言うことができ、その移行がすみずみまで成就された時、全ての人が芸術家となった時に今日のような芸術家を物を作る職業とはじめて認知してかまわなくさせるはずです。現時点での芸術家は、物を作る人でも、職業であるわけでもありません。むしろ、物でないものを作っている。たとえば、芸術作品を理解するにはそこに創造的行為が含まれざるえないわけで、そのような観賞者を芸術家と呼ぶこともできるのです。
 さらに進めれば、現代のインターネットはいかにも不充分ですが、それを私の考える人間のつながり方の影として考えることは可能かと思われます。つまりインターネットは人間存在の根底的であり本来的なつながりを地上に出したようなものと言えることでしょう。それは個人の中での戦いを外に出して、社会対個人、個人対個人の戦いのようにスライドさせてしまったようにです。
 ここで理想的なインターネットというものを想定してみるなら、全てに接続されていて完全にオープンであること、ゆえにそれを管理することや、著作権の問題など必要なくなってしまうのではないかと思われます。それぞれが関係し、与えられ与えられるわけですから。そこに、はじめて平等状態が出現するはずです。示し合わせることなく、個人のことを個人でやっていながら、その実共同で同じ1つの仕事に従事しているというように。そして共同作業の場合、それぞれの差異こそが重要性を発揮させるのではないでしょうか。それぞれの探り方が異なるがゆえに、偶然といった豊かさを伴って効率的に進展できるのです。
 ここに上げた人間のつながりに関しては、この作品が壁の上にかけられるということからもある程度は気分されるのではないかと思います。もちろん、それも複数がひとつながりの壁の上にかけられなければならないのですが。いずれにせよ絵画は壁にかけられて当然ということではなく、この作品にとって壁はさらに重要なものとして存在しているに違いありません。
 最後に現在の作品と平行して作っているオブジェ形式の作品について1つだけ触れるなら、ここに話した内容のいずれかか複数、あるいはそれらから派生する事柄を扱ったものと言えるはずです。作品を作品によって解説するというような手法として理解でき、それは上記の関係にも相応するように思われます。

2005 ライオン タグチファインアート