| Posted by 野村和弘 | Date: 07.07.18 PM03:47 |
「ましな人間」—誤解によってか否か名を成した人しか知りえないとしても、運なく顧みられなかったその種の人々の存在したことも忘れないようにしよう、彼らを前にしておそれるのは、まだ完全に感覚を麻痺させていない証拠であり、その気持ちを隠蔽するより、自らをちっぽけな存在だと悟るべきではなかったか—同じ人間をして、そこまで行きえたという確信こそは希望の光ではないか。
ベンダースの初期長編映画「さすらい」は二つの意味でさすらいだ。普通には全編に繰り広げられるそこそこに楽しい、しかし死んだ生活のことだし、もう一つはその最後に気分させられうる主人公の再出発—多分かつて志し挫折してしまったことへの、映画以降の物語である。老人の想い出として語られる繁栄し頃の映画館。閉鎖をまのがれたとしても、もはやセックスフィルムによってしか人を呼べなくなったくたびれた映画館。昔のような映画が生み出されるようになれば、いつでも再開すべく機材の手入れだけは怠らない休眠状態の映画館。
殺された言葉、あるいはその内容がすり替えられてしまった言葉。「ましな人間」は、それらの言葉を満たすべくさすらうのだ。そのままでいたい人を、そうさせておきながら—彼らに対して直接的な戦いを挑ませるのが若さだとしても、それはもともとにもっと大きなものへと向かう衝動からではなかったか。
はたして、その種の人々がただ奇異なだけのものを志向するだろうか。そのように見えるとすれば、この世の中こそがむしろ逆転されてあるからではなかったか。倒立者と、それでありながらも脚によって立つことを意志する人間。
2003 collector's room2 T&S Gallery

