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野村和弘 (美術家) の記事一覧 (6 件)
ENTRY #65
2003 collector's room2
Date: 07.07.18 PM03:47

「ましな人間」—誤解によってか否か名を成した人しか知りえないとしても、運なく顧みられなかったその種の人々の存在したことも忘れないようにしよう、彼らを前にしておそれるのは、まだ完全に感覚を麻痺させていない証拠であり、その気持ちを隠蔽するより、自らをちっぽけな存在だと悟るべきではなかったか—同じ人間をして、そこまで行きえたという確信こそは希望の光ではないか。

ベンダースの初期長編映画「さすらい」は二つの意味でさすらいだ。普通には全編に繰り広げられるそこそこに楽しい、しかし死んだ生活のことだし、もう一つはその最後に気分させられうる主人公の再出発—多分かつて志し挫折してしまったことへの、映画以降の物語である。老人の想い出として語られる繁栄し頃の映画館。閉鎖をまのがれたとしても、もはやセックスフィルムによってしか人を呼べなくなったくたびれた映画館。昔のような映画が生み出されるようになれば、いつでも再開すべく機材の手入れだけは怠らない休眠状態の映画館。

殺された言葉、あるいはその内容がすり替えられてしまった言葉。「ましな人間」は、それらの言葉を満たすべくさすらうのだ。そのままでいたい人を、そうさせておきながら—彼らに対して直接的な戦いを挑ませるのが若さだとしても、それはもともとにもっと大きなものへと向かう衝動からではなかったか。

はたして、その種の人々がただ奇異なだけのものを志向するだろうか。そのように見えるとすれば、この世の中こそがむしろ逆転されてあるからではなかったか。倒立者と、それでありながらも脚によって立つことを意志する人間。

2003 collector's room2 T&S Gallery

ENTRY #72
johnna
Date: 07.08.08 PM03:49

johnna
このすばらしい響きを持つ女性の名前は、Johnの女性名である。この作品は拡大された「1/973」(*1)と言うことができ、映画「ジョニーは戦場へ行った」(*2)の主人公、Johnny-Johnの姿に似ているためそう名づけられた。

*1
別の作品の為に用意した973個の動物フィギャアの中から偶々発見された不良品を2002年にガラス・シャーレに収めた作品。モロフォロジックな形態を有すこれらのイコン(鋳造物)は、それぞれ、完全な親の不完全な子という関係を示唆する。しかし、完全なオリジナルの在処の根拠はすでに失われて久しい。そうであるなら生物学的な欠陥者がオリジナルを批判するのとは反対の、むしろ不完全なものがその不完全さによって連なっていく新しい関係の構築の可能性さえほの見えてくるのではないか。
- 2003年4月の南天子画廊での個展リーフレット(文 小川稔)からの抜粋

*2
ジョニーは戦場で爆撃に合い、両手足、顔を失う。医者は彼が働きかけても筋肉の痙攣だと判断し、正常な意識のあることを認めない。クリスマスの日、看護婦が彼の胸に「Merry X'mas」と指で書いたことに激しく反応し、モールス信号によってコミュニケーションの扉が開く。
1971年アメリカ。1939年に発表された小説「ジョニーは銃をとった Johnny Got His Gun」を、その作者ダルトン・トランボ自らが監督。1962年に、ルイス・ブニュエルが脚色に参加するも頓挫している。

2005 johnna 南天子画廊



johnna 2004 7×5×3.5 cm bronze

ENTRY #127
ライオン
Date: 07.11.06 PM07:26

 私のタブロー形式の作品、1シリーズは通常白ですが、他に“赤”が9点、“緑”を1点制作しています。
 この背景について考える時、そこに打たれる点と同色の背景では、その点が見えなくなるということにまず着目できることでしょう。また、見えなくなる同色以外の点も、普通に発色することはありません。たとえば赤の背景では、黒と緑の点を識別することは困難です。一方、白の背景の場合5色全ての点をその色として見ることができるわけで、そこに描かれた植物の形体もありのままに現れます。このありのままに現れるということを何かの目的に対する進みとして捉えれば、“色付き”の方が“白”より劣った状態にあると言えるはずです。しかし、その背景以外両者に違いが見られないということを合わせるなら、それらはある1つの状態の中での程度差の表われにすぎないと考えられるのではないでしょうか。つまり色を変えただけのバリエーションの問題としてではなく、その差異によってその1つの状態の中に流動性の存在することを気分させるのです。といっても“色付き”が作られたのは“白”よりずい分後になってからのことであり、“白”のみであった時にもすでに同様の流動性が存在していたと言えます。でなければ“色付き”を待たない限り、この作品は未成立ということになってしまいかねません。“白”が同様の流動性を有するということは、構想の当初からこの作品を人間存在に対応させて考えていたことにはじまります。そこに種と個、成長、進化といった問題が引き合わされたのです。
 まず、種と個が相反するベクトルに存在するということを取り上げてみます。個は種を維持させるためだけではなく、種を超え出てゆくための可能性としての側面をも有しているはずです。種が個を抑え込むのは、種の暴走状態、生存の危機的状況を招くリスクを軽減させる必要性からに他なりません。つまり個はいろいろな方向に進化の可能性を探る役割を持ち、その探られた可能性が繁栄を目的として有効と判断された時に種の壁がはじめて押し開かれるように、というわけです。
 この戦いの状態は、描かれた植物の形体の半分がいつも正常で、他の半分が色点レベルとして所定の位置と異なる位置にあるという状態から読み取ることができるのではないでしょうか。形体が確固としてあるということはすでに一つの権力ですし、たとえばトマトの位置にオレンジの点があるということは、まだその形体を変えるには至っていないとしても変化への探りがあるということに他なりません。さしずめ“色付き”はその1つの状態に参入したて、まだ以前からの後ろ盾を残した存在となることでしょう。
 ここにその1つの状態を横断するその前後をも含めた流動性、ベクトルが見えてきたはずです。また“色付き”は、それらが存在するということ自体で、その1つの状態の中を広いものとする可能性、赤の後ろ楯をもつものもあれば、緑もあるというように、特権的ではないその1つの状態への参入の自由度をも示すことを適えさせたと言えます。
 そして種と個ということについてのもう一つは、全体と部分に関しての問題となるはずです。たとえば展示された作品はいつまでいっても部分でしかないわけですが、それらの比較によって他の作品、しいては実際に作られた総数よりさらに大きな全体をも垣間見せてくれるに違いありません。道に落ちている1個の石ころ、プラスティックの破片でさへ、その痕跡をたどっていけば、宇宙のはじまりにまで達すると考えることができるのではないでしょうか。このように全体は部分を含むということと逆のベクトル、部分は全体を含むということが同時に成立しうるはずなのです。なぜ、生物の細胞は働きえるのか。それは自分の位置を知り、自分の仕事を知っているからに他ならないことでしょう。これには統率者によって振り分けられ、教えられるというような場合も想定可能ですが、そう考えるよりは自分で判断しているとすることの方に妥当性が認められると思います。とすれば種というものは存在せず、それは個の内に刻まれた何かと考えてさしつかえなくなるはずです。ここに立てば、社会革命的なことであっても、いかにも対外的な、種を外部に存在するとして考えることに他ならなくなるように思われてきます。この対外的とは、その1つの状態以前の状態に相当するのではないでしょうか。その1つの状態を色点の状態からフリークとするなら、その1つの状態以前の状態もフリークであり、にもかかわらず健全と思い違いしている状態、その1つの状態以後の状態を本当に健全な状態と考えることができ、思い違いをしていることを知らない、ゆえにそこに喜びを見い出しているのか、それを知って、あるいは気付いていながらもそこに留まることを欲っしているのかのどちらかとなるはずです。またその1つの状態のことを、自分がフリークとしてあることを自覚し、その克服に出発した状態という意味での健全な状態とも言えることでしょう。
 この種が個を含み、個が種を含むという含み合いは、描かれた植物の形体が全て同一であること、それでいて一つ一つが異なる色点の位置を持って、つまり別々のものとして自立してあること、それが多数存在するということから可能とされたのです。
 そして、次のように考えることも可能でしょう。進化の可能性を探る個と真の意味での芸術家はオーバーラップして捉えることができるのではないか。ここに真の意味でとしたのは、この1つの状態以前の状態にある人間でありながらも、自らを芸術家と名乗ったり、そう呼ばれている人々も存在するからに他なりません。つまりその1つの状態にある人間のことを、私は芸術家と見なしているということになります。進化の問題を考えることと芸術について考えることは近しく、人間存在というより、芸術家としての存在を念頭に置いていたと言った方が正しかったのかも知れません。その1つの状態こそが私にとっての興味であり、人間のあるべき姿のように思われているのです。
 ここにその1つの状態以前にある人間とその1つの状態にある人間の違いは、対外的な戦いから個人の中での戦いの移行に存在すると言うことができ、その移行がすみずみまで成就された時、全ての人が芸術家となった時に今日のような芸術家を物を作る職業とはじめて認知してかまわなくさせるはずです。現時点での芸術家は、物を作る人でも、職業であるわけでもありません。むしろ、物でないものを作っている。たとえば、芸術作品を理解するにはそこに創造的行為が含まれざるえないわけで、そのような観賞者を芸術家と呼ぶこともできるのです。
 さらに進めれば、現代のインターネットはいかにも不充分ですが、それを私の考える人間のつながり方の影として考えることは可能かと思われます。つまりインターネットは人間存在の根底的であり本来的なつながりを地上に出したようなものと言えることでしょう。それは個人の中での戦いを外に出して、社会対個人、個人対個人の戦いのようにスライドさせてしまったようにです。
 ここで理想的なインターネットというものを想定してみるなら、全てに接続されていて完全にオープンであること、ゆえにそれを管理することや、著作権の問題など必要なくなってしまうのではないかと思われます。それぞれが関係し、与えられ与えられるわけですから。そこに、はじめて平等状態が出現するはずです。示し合わせることなく、個人のことを個人でやっていながら、その実共同で同じ1つの仕事に従事しているというように。そして共同作業の場合、それぞれの差異こそが重要性を発揮させるのではないでしょうか。それぞれの探り方が異なるがゆえに、偶然といった豊かさを伴って効率的に進展できるのです。
 ここに上げた人間のつながりに関しては、この作品が壁の上にかけられるということからもある程度は気分されるのではないかと思います。もちろん、それも複数がひとつながりの壁の上にかけられなければならないのですが。いずれにせよ絵画は壁にかけられて当然ということではなく、この作品にとって壁はさらに重要なものとして存在しているに違いありません。
 最後に現在の作品と平行して作っているオブジェ形式の作品について1つだけ触れるなら、ここに話した内容のいずれかか複数、あるいはそれらから派生する事柄を扱ったものと言えるはずです。作品を作品によって解説するというような手法として理解でき、それは上記の関係にも相応するように思われます。

2005 ライオン タグチファインアート

ENTRY #135
D/J Brand
Date: 08.01.29 PM02:05

修道僧であり画家のアンドレイは、夜の川辺に異教徒の祭りと遭遇する。炎をかざした裸の男女が入り乱れ踊る光景を目の当たりにして、立ち去ることができない。
—映画「アンドレイ・ルブリョフ」(A. タルコフスキー)、第1部祭日1408年

異教徒←→キリスト教

異教徒(アンドレイが見い出したものとしての)=画家(アンドレイがまだなっておらず、求めているものとしての)

異教徒→ アンドレイ←キリスト教

キリスト教的図像=A. ウォーホルのキャンベルスープ?

芸術が他者でないなら、いったい何だろう?

2005 D/J Brand東京芸術大学大学美術館
http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/d_jbrand/d_j_brand_top.html


ENTRY #146
野村和弘個展 "johnna" のお知らせ
Date: 08.03.22 PM12:50

京橋の南天子画廊にて、3月31日−4月26日の会期を持って、" johnna "を開催します。ぜひ、ご高覧下さい。

殉職者Wに、johnnaを捧ぐ

自らがフリークだと自覚して、そのことと共に生きることは容易いことではないのだろう。だいたいが、うすうす感じていたとしても,良くてその周りをうろつくばかりだ。そこに足を踏み入れようものなら,知らない他者に安定を脅かされてしまうかも知れない。それを得るために払ってきた労力、その全てが無になってしまうのだとすれば。知らない他者など、存在しないことにしてしまおう。その人々の心は連帯を作らせる。フリークとして生きる人間は混乱をもたらす、あるまじき罪人なのだ。そして言うだろう。しかしあなたが望むなら、正常な私たちと遜色のない人間にしてあげよう。背中のこぶでさへ、取り除くことが可能だ。それでも応じない人に、その寛大な人々は一転石を投げ始める。それが、自らの無罪を証す唯一の方法だからだ。しかも、真っ先であることを競うようにして。迷いが見えたら疑われかねないし、何より自分を信じさせる必要があるために。また都合の良いことに、その罪人=敗北者は、次第に無口とならざるえなくなる。それは度重なる投石にエネルギーが萎えたからではなく、本当は、と口を開くことに、自らの優位を語る勝利者と同じ自分を見てしまうからだ。さらに勝利者は、敗北者の銅像を自分たちのために建てるだろう。ちょうど生々しさが飛んだ頃合いで。

*Wは、今年の2月にこの世を去った同年代の画家である。彼の作品は、ヨーロッパ、バロックの教会や城を飾る大理石を模した壁画の表面に似ていた。

ENTRY #146
野村和弘個展 "johnna" のお知らせ
Date: 08.03.22 PM12:50

京橋の南天子画廊にて、3月31日−4月26日の会期を持って、" johnna "を開催します。ぜひ、ご高覧下さい。

殉職者Wに、johnnaを捧ぐ

自らがフリークだと自覚して、そのことと共に生きることは容易いことではないのだろう。だいたいが、うすうす感じていたとしても,良くてその周りをうろつくばかりだ。そこに足を踏み入れようものなら,知らない他者に安定を脅かされてしまうかも知れない。それを得るために払ってきた労力、その全てが無になってしまうのだとすれば。知らない他者など、存在しないことにしてしまおう。その人々の心は連帯を作らせる。フリークとして生きる人間は混乱をもたらす、あるまじき罪人なのだ。そして言うだろう。しかしあなたが望むなら、正常な私たちと遜色のない人間にしてあげよう。背中のこぶでさへ、取り除くことが可能だ。それでも応じない人に、その寛大な人々は一転石を投げ始める。それが、自らの無罪を証す唯一の方法だからだ。しかも、真っ先であることを競うようにして。迷いが見えたら疑われかねないし、何より自分を信じさせる必要があるために。また都合の良いことに、その罪人=敗北者は、次第に無口とならざるえなくなる。それは度重なる投石にエネルギーが萎えたからではなく、本当は、と口を開くことに、自らの優位を語る勝利者と同じ自分を見てしまうからだ。さらに勝利者は、敗北者の銅像を自分たちのために建てるだろう。ちょうど生々しさが飛んだ頃合いで。

*Wは、今年の2月にこの世を去った同年代の画家である。彼の作品は、ヨーロッパ、バロックの教会や城を飾る大理石を模した壁画の表面に似ていた。